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ブログ拍手にてコメントを送って下さった「もりつき」さま

メッセージをありがとうございました。
土日を留守にしておりましたので、お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
昨日、FC2の旧ブログ(悠々閑々)にコメントを残して下さったのも、もりつき様でしょうか?
お尋ねの「陰間茶屋」の件ですが、ワタクシが参考にした文献を取り急ぎ紹介させて頂きます。

■三笠書房「江戸のかげま茶屋」花咲一男著
■批評社「江戸男色考/若衆編」柴山肇著
■平凡社「江戸の少年」氏家幹人著
■洋泉社「江戸の男色」白倉敬彦著

代表的なところは上記でしょうか。
ワタクシ的お勧めは「江戸のかげま茶屋」(2800円税別)です。
男色を網羅しようとすると範囲が広く大変ですが、陰間茶屋に絞るのでしたら、これ一冊で様子が大体分かりますよ。
三笠書房はweb検索してみて下さい。オンラインで購入可能です。
また「どのように読めるようになったのか」と言うご質問に関しては、古語辞典片手に古典を読み解く要領で、としかお応えしようがありません。
「江戸のかげま茶屋」では現代語訳や注釈は少なく、「若衆ハ其まゝ姿つくりて、折ふしハ客つとめもせらるゝ也」と万事がこの調子ですが、大丈夫、その気になれば楽しく読み解けます!
是非とも頑張って下さいませ。
こんな感じで宜しいでしょうか?お役に立てましたら幸いです。

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お江戸と言えば日本橋!元は二本の丸太を掛けた橋だったことから、
二本橋=日本橋と呼ばれるようになったとか。
日本橋には大店(おおだな)が軒を並べていました。
大店というのは、店の構えが大きく、手広い商売をした商家を言います。
今日は、大店のお話をしますね。
お店で一番偉いのは、勿論店主、旦那様です。女将さんの場合もありますね。
奉公人のほぼ全員が、一つ屋根の下に住み込みで働いています。
旦那様や女将さんの信頼の厚い奉公人が番頭(ばんとう)さんです。
番頭さんには一番番頭、二番番頭、三番番頭などの位があり、それぞれの
番頭さんの下に手代(てだい)がいます。
手代は入店後9年目にしてようやくなれる位です。その下が丁稚(でっち)。
丁稚奉公と言うのは、11、12歳で口入屋(くちいれや:今で言えば職安?)の
仲介でお店に雇い入れが決まった者が、給金なしで住み込み奉公することです。
雑用、使いっ走りが仕事で、お給料は貰えませんが、たまに僅かな祝儀や小遣いが
出たりしました。お仕着せ(おしきせ:季節ごとに店から支給される着物)も
あったようですが、粗末なものだったようです。
ガッチリ稼いで、慎ましく暮らし、お金を残して店を大きくするのが賢い商人。
奉公人に贅沢はさせません。
店の金を使い込むような奉公人が出ると、奉公人の反省の仕方次第で奉行所に
突き出したりせず、一生店に置いて下働きとしてこき使うこともありました。
これが俗に言う「飼い殺し」です。
手代を10年ほど勤めると番頭さんになりますが、番頭も10年ほど勤めて
ようやく暖簾わけして貰い独立することが可能になります。
番頭になったからと言っても最初のうちは、まだまだ住み込みです。
店の外に家を持ち、そこから通いが許されるまで何年も掛かります。
通いが許されるようになると、暖簾わけ=独立も近づきます。
順当に出世できれば、11歳で丁稚に入り、20歳で手代になって、30歳で
番頭になり、その後40歳で独立という感じ。
一人前になるには、それくらい時間が掛かったのですね。
昔の人は辛抱強かった!

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ブログで不定期連載中の「八丁堀黄表紙綴り」は、日本橋、深川界隈を中心に
お話が展開します。
昨日は日本橋の大店についてお話しましたので、今日は深川のお話を少し。
深川と言えばお江戸最大の岡場所(おかばしょ)です。
岡場所というのは、お上から許可を頂いていない遊所のことです。
お上の許可が下りた遊所は、かの有名な遊郭新吉原だけでしたが、深川は
暴れん坊将軍・吉宗公の時代頃から富岡八幡(永代寺)周辺に急速に発展し、
吉原を凌ぐ勢いだったといいます。
ここで有名だったのは、深川芸者こと巽芸者(たつみげいしゃ)。
江戸城から見て辰巳の方角に深川があったために、巽芸者と呼んだそうです。
この巽芸者ですが、職人さん達が多い下町らしく、芸者も威勢が良く、粋で、
格好良かった。
男名の芸者が多く、時には羽織を着てお座敷に上がったりもしたので、
羽織芸者と呼ばれることもありました。(今なら男装の麗人かな)
よその芸者に比べて化粧が薄く、無地小紋や裾模様の紋付に下げ帯、一年中
素足に吾妻下駄のいでたちで、とても人気があったそうです。
余談ですが、柳橋芸者というのは、深川の遊所が取り払われた後に柳橋に
移った芸者達のことです。元々は深川の芸者さんだったのですね。
芸者とは異なりますが、街娼(売春婦)にも色々種類がありました。
一番下級な街娼は夜鷹(よたか)。夜になると、ムシロを抱えて川原の土手
などに現れて、客があると材木の陰などで売色しました。(アオカンだ)
夜鷹とともに最下級だと称されたのが、舟饅頭(ふなまんじゅう)です。
大川(隅田川)辺りの舟の中で、船頭相手に売色した街娼です。
他には上野辺りから浅草まで広がっていた私娼や娼家を指す蹴転(けころ)、
金猫(お代が金一分だったから)、銀猫(お代が銀二朱だったから)とか。
変わったところでは提重(さげじゅう)と言って、提げ重箱に菓子等を入れて
物売りを装い、武家の中間部屋などを廻って売色した街娼もいたそうです。
明日は、BLサイトらしく陰間茶屋についてお話してみましょうかね(笑)

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今日は陰間茶屋について少し。
陰間茶屋とは男色を売るお店のこと。男色を売る陰間と呼ばれる少年は役者の卵。
最初の頃は舞台に出る前の役者の卵を指して言いましたが、段々と男色を売る少年を
陰間と呼ぶようになったとか。
どの子もみんな大変な美少年だったそうですよ。
変声期前の美少年が島田髷に花かんざしを挿し、女の着物を着て、黒塗りの下駄を履き、
芸者のように三味線を弾き、唄い、踊りもしつつ男色を売っていました。
美少年が綺麗に着飾っているのですから、それだけでもう堪りませんわな(笑)
17、8を過ぎて大人びて来た陰間は、女を相手にすることも多かったそうです。
主なお相手は大きな家の後家さんや奥女中。有閑マダムのホストクラブ通いみたい。
陰間茶屋は岡場所と同じく、公共の遊所ではありません。
吉原側からの提訴があれば、当然取り締りを受けました。
というのも、陰間茶屋は人気があったので、吉原にとっては商売敵だったのです。
陰間茶屋にとって、女色を禁じられているお坊さん、特にお金持ちの高僧などは
大のお得意さんでした。
気になるお値段ですが、陰間と遊ぶと一切(一時半、今の三時間)で一分(今のお金で
2万5千円)、昼夜一日を独占すると二両(20万円!)にもなったそうです。
これは吉原の中級クラスの遊女の値段に匹敵します。
吉原側がお上に告げ口したくなる気持ちも分からないではないかな(苦笑)
さて、陰間はお客に呼ばれると、女郎屋ならぬ男郎屋から男色専門の茶店に出張します。
役者は外では顔を晒してはいけない決まりになっていましたから、陰間の少年は
頭巾を被り、その上から編み笠を被って外出しました。
と言っても大きく高く結った女髷をしていましたから、ちゃんと編み笠を被れる
わけではありません。手で持って顔を隠していたそうです。
住吉町、和泉町、長谷川町、大阪町、堺町新造の陰間茶屋を摘発した記録が
残されていますから、やはり芝居小屋のあった日本橋界隈ですね。
堺町には中村座、市村座がありましたから、陰間を集めやすかったのです。
日本橋芳町(芳町は俗称で正式には堀江六軒町。今の日本橋人形町あたりです)には、
24軒もの陰間茶屋がずらりと軒を並べ、100人を越える陰間がいたそうです。

陰間について深く語ろうとすると、歌舞伎の歴史から始めねばなりませんのでパスね。
ここではサラリと軽く語るのみに致しましょう。
明日は吉原と思いましたが、陰間の訓練なんかをお話しちゃおうかな(苦笑)
などと言ってましたら、レオンに「八丁堀黄表紙綴りはまだか?」と突っ込みを
入れられました。
「江戸の風俗を語るのも良いけど、小説書いてね」だって。はぅ〜、書きまするぅ。

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今日は陰間養成についてです。
えーと、赤裸々に語りますので、男色がお嫌な方は通り過ぎて下さいませ。
これから陰間になろうと言う子供は12、3歳の美少年です。
現在でも容姿の良し悪しを問うときに「目鼻立ち」を話題にしますが、お江戸でも
目と鼻は重要だったようです。
陰間、娼女を問わず鼻は高い方が良いとされ、低い鼻は摘み上げられたそうな。
「田舎から都会に出て来たばかりの子は、すぐには使い物にならない」とされ、
まずは口の中を良く磨いて口臭のないようにし、脇の下を良く洗い、肛門には
指を入れて洗浄するように躾けられます。
また、肌をきめ細かくするために、ザクロの皮を干した粉で体を磨かせました。
三味線、鼓、唄、踊りもお稽古します。仕草も言葉も女らしく改めます。
それと平行して夜の訓練が行われました。
慣れた専門の男性に幾晩か挿入して貰い、器具も使って徐々に肛門を広げて
行くのですが、その間は決して射精はさせませんでした。
これで射精の味を覚えると、初めてお客がついたときに肛門を締めるので、客が
気持ち良さのあまり腰を荒々しく使うため、陰間が怪我をしやすくなるからだ、
とされています。
初トコロテンはお客さんのものだったのですね!(苦笑)
一夜目は、ほんの先っちょだけ挿入しておしまい。
二夜目はカリまで挿入します。三夜目には半分ほど挿入します。
四日目からは五日ほど続けて、本格的に挿入します。
こうすると肛門が潤い、具合が良いと言うのです。
この時、教える側の男性も射精してはいけません。陰間になりたての頃は、中出し
すると直腸内が荒れて、病気になることが多いから、と物の本に記されています。
毎晩こうして訓練されるわけですが、毎回指南役が抜いた後には腰湯をし、棒薬と
いうものを挿入して一晩置くそうです。
木の棒に綿などを巻きつけ、ゴマ油に浸して、最初は硫酸銅をつけたものを挿入し、
直腸裏膜を腐食(!)させ、感覚を鈍らせることから始まります。
山椒の粒などを棒薬にしていれると今度は痒くなりますので、何かを入れて撫でて
貰えば気持ち良くなるようになる、とか。
多分、毎晩、薬を塗った張り型のようなものを入れて寝たんですね。
棒薬に塗るものは他にも色々とあったようです。
実際に事に及ぶ際には、「いちぶのり」というふのりを口の中で良く溶かし、肛門に
塗りつけました(今で言うローションですね)
ふのりは、煮溶かして薄く延ばし紙状に乾かししたものを一分(約3ミリ)に切って
印籠に入れ、持ち歩いたそうです。。
ふのりや、ねり木の汁を使ったり、蜜を使ったり、それでも入らない時には、客を
仰向けに寝かせ上に乗れば、「ずっぽり」だそうな(苦笑)
とは言え、狭い器官に挿入するのですから、やはり難儀することも多かったようで、
「入らんとする時、うちよりはりかけ、少し開くやう」にするのがコツで、大便を
する時のようにいきませると肛門の内側が赤く見えるほどに開くので、タイミングを
見て挿入しなさい、という男色性技の指南書があるほどでした。
お客の方は、酒綿(さけわた)と言って、酒に綿を浸したものを持ちました。
これは、お客のムスコがあまりにも大きくて出来ない時に、お断りする場合の作法の
道具だったようです。
酒綿を手に取り、お客のムスコを撫でると、自然と萎えるのだそうですよ。
それで、お客も無理をせず、納得して帰るのだとか。ほんとかな?

男色養成と床入りの技を読み解くのは難しく(江戸時代の言葉は難解!)、
古語辞典片手に少しずつ楽しみながら勉強中なので、胡乱な部分もあるかも(汗)
さーて、明日はどこに行きましょうかね。

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「好色」という言葉があります。
現代では「このうえない好き者」「助平」の意味だと思われていますが、実はもっと
意味の深い、良い言葉だったことをご存知でしょうか。
流行に敏感でセンスが良く、話も気が利いていて面白く、人の機微に敏感で良く気が付き、
教養があって、芸ができ、恋心についても良く知っている。
お江戸ではこういう素敵な人が男女ともに好感を持って「好色」と呼ばれ、もてました。
さて、大方のお江戸の人たちにとって、どうやら恋と結婚は別物だったようです。
結婚は家と家の結びつきであり、生活のためにするもので、本気で惚れ合って一緒になる
ことを「浮気な結婚」と称し、嫌いました。
浮気というのは、決まったパートナーがいるにも関わらず、他の人に手を出すことを
言うのではありません。
恋愛が好きな人のことを「浮気者」と呼びます。浮気というのは本気の反対語ではなく、
現実の反対語だったようです。結婚が現実で、恋愛は夢見心地というところでしょうか。
お江戸の結婚は、女の持参金や女房の働きに左右される部分が大で、非常に現実的でした。
「好きだから結婚しよう」なんて理由は、浮気と思われてバカにされてしまうくらい。
「浮気」と「好色」がどう違うのか良く分かりませんが、超現実的な結婚だからこそ、
見合いも盛んだったといいます。仲人業も大繁盛でした。
さてさて、前置きはこれくらいにして、今日は結婚ではなく恋愛話をするのでしたね。
お江戸の恋愛の多くは「岡惚れ(おかぼれ)」から始まりました。
「岡惚れ」というのは一目惚れと言いますか、片思いとでも言いますか、通りすがりに
チラリと見かけた人に恋しちゃう。あるいは馴染みの芸者に恋しちゃう。相手は自分の
ことなどただの客としか思っていないと分かっているのに。
なんてことを、お江戸では「岡惚れ」と呼んで、日常的にあったのです。
因みに相思相愛の仲は「相惚れ(あいぼれ)」といいます。
さぁ、どうにかして自分を知って貰おう、振り向いて貰おうと思ったら、次に取る手は
手紙とプレゼント攻撃です。
「好色」の条件の一つに、上手な手紙が書ける(教養)ことも上げられますから気合が
入ります。だって、誰だって異性にもてたいじゃないですか。
「好色」=「格好良い」の時代ですから、恋文一つに必死になっちゃうところが可愛い。
そう言えば、吉原の遊女達も禿(かむろ:遊女見習いの幼女)の頃から、手紙の書き方を
勉強したそうです。
吉原の遊女は教養が高く、話して面白く、ありとあらゆる芸事や家事ができ、なにを
させても一人前以上だったといいます。今で言えばスーパーキャリアウーマンですよ。
しかも格の高い花魁は恋の達人なうえにファッションリーダーで、アイドル的存在でもあり、
男は勿論、女も憧れたそうです。
さて、恋文を渡し、かんざしの一つもプレゼントして、「好きだ、好きだ」と囁いて、
なのに相手が振り向いてくれた途端にパーッと冷めてしまう。
恋が成就したことに満足して、あとはどうでも良くなってしまうのです。
多分、恋愛は「浮気」という概念のせいじゃないかと思うのですが、どうやらそんな
軽い恋のゲームが多かった模様です。
女も積極的でした。惚れた相手の気を引こうと、すれ違いざま小袖を破いたりする。
「あなたの刀の金具が当たって袖が破れた。どうしてくれる」と言い寄るためです。
男の方もその辺りのことはちゃんと心得ていて、そのままラブホテルへGO!(笑)
でも事が終わればあっさりと「楽しかったわ。さよなら」です。
お江戸の人達は愛よりも恋こそが重要だと考え、どちらが恋の主導権を握るか、
引いたり押したりな駆け引きを楽しんだのです。
なんと言っても、熱しやすく冷めやすいのは江戸っ子気質ですよね。

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