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おはようございます。一日の終わりに検索フレーズを覗くのが楽しみになっている母です。
ここ2,3日「男色春画」をキーワードにいらっしゃる方がグンと増えています。
「陰間」「陰間茶屋」もチラホラと見えます。皆さんも、お好きですねぇ。
こんな小話程度のブログでもお役に立ちましたでしょうか?
因みに母がテキストとして読み解いているのは三笠書房の「江戸のかげま茶屋」です。
男色春画が豊富に添えられ、江戸時代の書物からの抜粋文も豊富ですが、翻訳はさほど
親切ではありませんので、ほとんどの部分を自分で読み解かねばなりません。
翻訳解説された新書タイプの本も沢山ありますが、自分で読み解くというのは「勉強
したーっ」という気になって良いものですよ。
「江戸のかげま茶屋」の男色春画は、白黒印刷とは言え数は豊富ですから、興味のある方は
ご購入されては如何でしょうか。
春画を眺めていると、ある法則に気が付きます。
それは現在のHグラビアのようにモデルが一人で「あはん、うふん」していないこと。
必ず二人以上が絡み合って描かれているのですね。
美女一人の錦絵もありますが、これは女性をより美しく描く美人絵で、エロではありません。
そして春画では男女共に性器が、ほぼ顔と同じ大きさで誇張されて描かれていること。
この頃既にデフォルメが当たり前になされていたのですね。
しかも強姦やSMのような、暗く、悲惨な雰囲気のものは、ほとんどありません。
昨日お話した担ぎ売りの少年の輪姦なども、白っぽい画面のせいか悲壮感0です。
人物の表情が乏しいせいもあるかも。血走ったり、助平笑いしてたりと言った表情は皆無で、
どれもこれも割と淡々とした表情をしているのが不思議。
あまり淫靡さはなく、あっけらかんと描かれているものがほとんどです。
おおらかで明るくて、なんだか微笑ましいくらいで、恋のゲームを楽しんだ江戸人らしい
なぁと思います。
あれ、なんだか小話「お江戸と言えば」みたいな内容になってしまった(汗)
じゃぁこれは「お江戸と言えば5.5」と言うことで(苦笑)

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今日は、黄表紙本と山東京伝について少し。
「八丁堀黄表紙綴り」は、その名の通り黄表紙本です。
黄表紙本というのは、その名の通り黄色い表紙の大人向けの洒落本を言います。
深川や吉原の遊郭などの話を面白可笑しく、挿絵入りで書いてありました。
今で言うならば漫画本のようなものかな。
黄表紙本と言えば、語らずにはいられないのが山東京伝(さんとうきょうでん)!
とぼけた顔の男が暖簾から顔を覗かせた図柄の「京伝手ぬぐい」と言えば分かるかな。
あの絵を描いたのが京伝です。(分からない人は「京伝手ぬぐい」で検索してみてね)
京伝という人は、浮世絵も描けば、戯作も書く、広告も書く、マルチクリエイター。
この人の妹も黄表紙本を書いていたそうですよ。兄妹揃って才能豊か!
京伝が活躍した頃は、ちょうどバブリー田沼から名君・松平定信への移行期でした。
松平様は財政建て直しの手腕を買われて、田沼様失脚の後を任されたお方。
三大改革の一つである、緊縮財政、風紀取締りの寛政の改革を徹底した堅実派です。
名君と謳われる松平様ですが、「贅沢は敵だーっ」と言う遣り方に町民が不満を募らせ
始めると、京伝は艶っぽい漫画だけでなく、政治を何気に風刺した黄表紙本を発行。
するとたちまち「こいつはいいや」と庶民に大ブレイクしました。
お上の政策を悪く言うなど、とんでもないことでしたから、下手をすれば打ち首だと
言うのに、まったく大胆不敵な作家です。
表現の自由を奪われたのでは堪らない!という抵抗もあったでしょうけれど、これを
ネタに書いてやれと、作家の腕が鳴ったのではないかと思うのですが、どうでしょうね。
京伝の黄表紙本に登場したのは、なにもケチケチ松平様だけではありません。
実在する町民や花魁も描かれました。名前を伏せてありましたが、リアルな描写から
それと知れる仕掛けになっていて、これは誰かと当てる楽しみがあり、またまたベスト
セラーになる勢いで売れたのです。
中には実名で登場する人物もいたそうですから、知人友人は思わず買ちゃいますよね。
「あの人、本当に吉原でそんなことしたのかしら」という、どこまでがフィクション
なのだか分からないドキドキ感が、きっとウケたのだと思います。
ちょっとテレビのワイドショーっぽいですね(苦笑)
そうすると「財政難だと言うのに娯楽に興じるとは何事かっ」とまた松平様の怒りが
燃え上がり、その裏をかいて京伝は…まるでイタチの追いかけっこ。
やり過ぎたために手鎖りの刑に処されたこともあったようです。
ま、京伝のような人は別格として、粋でイナセで喧嘩っぱやく気風の良い江戸っこの
気質を面白可笑しく描いた、ちょっとスケベな大人の漫画本として、黄表紙本は
明治初期まで続きましたから、たいそうな人気があったというわけです。
他には赤本、黒本がありまして、赤本は子供向けの御伽草子(絵本)で、黒本は浄瑠璃や
歌舞伎、敵討ちなどの読み物。それぞれ表紙の色を称して呼びました。
さてと、明日は吉原へ足を伸ばしてみようかと思います。

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吉原は歌舞伎と共に江戸の二大悪所と呼ばれました。
どちらも道徳的な人間が行くような場所じゃないと思われていたようです。
けれど、そのどちらもが江戸文化の中心となってしまった、というのはなんとも皮肉な感じ。
吉原の風俗を歌舞伎で演じたり、歌舞伎役者を吉原の楼主(ろうしゅ:経営者)が
応援したりと、お互いに影響し合ったものですから、歌舞伎で心中物が流行ると、
吉原でも客と遊女の心中事件が多発したり、遊女に振られた男が逆上して大刀を
振り回したり。二大悪所と言うだけあって、なかなか物騒ですな。
吉原や花魁については、割と皆さん良く見聞きして知っていると思いますので、今日は
吉原への道案内なんぞをしてみたいと思います。
大川(隅田川)に流れ込んでいた山谷堀に沿って、吉原まで続く土手を日本堤(にほん
つづみ)と呼びます。浅草から吉原に行く客は、皆この土手を通りました。柳橋などの
船宿から猪牙舟(ちょきぶね:先が尖って細長く、船足の速い小さい舟)に乗って
来た客も、山谷堀に入ってからは舟を降りて土手を歩いて吉原へ向かいました。
吉原に行くのに日本堤を降りる坂を衣紋坂(えもんざか)と呼びます。ここで客が
いそいそと着物を整え直したからだとか。身づくろいは大事ですものね。
もう一つ、浅草観音の横手から吉原の大門(おおもん)までの行程を土手八丁と
言ったそうですが、実際には六丁半の距離だそうな。
えーと、大体七キロくらいかな。結構な距離がありますね。夢のお城は遠かった(笑)
さて、だらだらと続く衣紋坂をおりると右手に高札(看板)が立っています。
これを高札場(こうさつば)と言い、どんなお大名でも徒歩で大門をくぐるように等の、
吉原での決まりごとが書かれてありました。
左手には「見返り柳」と呼ばれる柳があり、吉原帰りの客がこの柳の下で大門を振り
返って見たことから、そう呼ばれるようになったそうです。いかにも名残惜しそう。
衣紋坂から大門までの曲がりくねった道の両側には茶店、酒屋、細見所、編笠茶屋
(あみがさぢゃや)等が並んでおり、道幅が約五十間(およそ九十センチ)あったので
五十間道と呼ばれました。
細見所(さいけんしょ)というのは、遊女屋や遊女の名前を詳しく紹介した「細見」
(パンフレット)を販売するところで、編笠茶屋と言うのは、素顔では差しさわりの
ある武士が顔を隠す編笠を貸し出した茶屋のことです。
他にも提灯を貸し出す店などもあったそうで、五十間道は賑やかでした。
さぁ、目の前に新吉原の大門が見えて来ました。吉原の出入り口はここだけです。
造りは堅牢な冠木門(かぶきもん:門柱の上部を貫く横木を渡した屋根のない門)は
鉄釘も重々しい黒塗り。
ここから吉原の中の各町へとお客は散って行くのでした。

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今日は町奉行について少し。
江戸府内の町地を所轄とした、行政、司法、警察などのことにあたった役所を、
総括して町奉行所と呼びます。
南、北両奉行所にそれぞれ各一人ずつ町奉行がおりまして、それがかの有名な
大岡越前だったり、遠山の金さんだったり、根岸の爺様だったり。
お奉行さまの役宅は奉行所内にあったそうです。
南と北に分かれていますが、所轄を二つに分けたわけではありません。
一月交代で申請書類等の受付をするための二つの奉行所であり、例えば今月の当番は
北町だから南町の旦那方は休みかと言えば、そういうわけではなかったようです。
書類の受付はしないと言うだけで、奉行所内ではちゃんとお仕事していたのですね。
町奉行所に勤める皆さんのことを「町方役人」(まちかたやくにん)と総称します。
そして町奉行所与力を「町方与力」(まちかたよりき)、同じく同心を「町方同心」
(まちかたどうしん)と呼びました。
江戸には町方奉行の他に、寺社奉行、勘定奉行があり、町奉行と合わせて三奉行と言います。
それぞれの「寺社方」「勘定方」と区別したのですね。
この中で一番偉いのは寺社奉行です。他の二奉行が老中支配であるのに対し、
寺社奉行は将軍直属なのです。
他の二奉行は旗本から選任されましたが、寺社奉行は大名から選任されるなど、
寺社奉行と言えば、譜代大名エリート出世コースのスタート地点的な役職でした。
おっと、それはともかく町奉行ですね。
お奉行様は上記のように旗本から選出されましたが、お役目がお役目ですから
非常に優秀な人が選ばれたそうです。
老中が警察庁総監だとすれば、奉行は警察署長かな。
となると与力は警視クラスかな。捕り物の時に与力は馬に乗って出たので、
一人二人と数えず一騎二騎と数えるのだそうです。与力達の中でも一番偉い役職が
筆頭与力ですね。
一応、一代限りと言うことでしたが、実際には世襲制だったようです。
与力の下にいる同心は警察官でしょうか。
町奉行所同心の中には、定(町)廻り(じょうまわり)同心、臨時同心、
隠密同心の三廻り同心(さんまわり)と呼ばれる職種があり、いわゆる外勤
警察官って言うか刑事みたいな感じ。
奉行所内勤の同心だっていますからね。同心全員が市中見廻りしていたわけじゃないのですよ。
市中見廻りに出た定廻り同心(定員たったの6名!)は、庶民に人気があった花形職業。
実際の捕縛に携わった人たちなので、熟練した40〜50代が多かったようです。
うーん、渋いオヤジが黒紋付で江戸の中を闊歩していたのか。
定廻りを長く勤めた人が付くのが臨時同心(定員6名)でした。定廻りの手が足りない時に
お手伝いに出た50歳以上のベテラン刑事です。
そして隠密同心(定員2名)はと言えば、町奉行直属の、その名の通り隠れ同心です。
通常、同心は与力の下につきますが、隠密同心はお奉行さま直属。それだけで、もう偉そう!
極秘に事件の裏を探ったり、証拠固めをしたり、スパイ大作戦か公安かっ!
松方さんでお馴染みの「死して屍拾う者無し×3」の、あの隠密同心です(大好きでしたよぅ)。
TVと違って、実際に捕縛に携わることはなかったと言う説と、自分の判断で捕縛、
または斬り捨てても良いとされたと言う説とありますねぇ。どっちが本当なんでしょうか。
さて、同心達はそれぞれ小者(こもの)を2、3人使っていました。
小者とは使い走りなどの雑用をする人たち。手先とか岡っ引きとも呼ばれますが、
岡っ引きと呼ばれる人たちの中でも、奉行所に名前を届け出た人たちを特に小者と
言うそうです。それ以外は「並」(なみ)と呼ばれたとか。ちょっと悲しい(苦笑)
捕り物の時に登場する十手(じって)は、同心の小者であるという身分の証です。
それも捕り物があるときだけ奉行所備え付けの十手を渡されたそうな。ほんとに悲しい(苦笑)
でも、南、北両奉行所の三廻り同心を合わせても28名しかいませんから、町民だけでも
60万人以上いたと言われる江戸市中全てに目が行き届くはずもなく、岡っ引きの
存在は重要でした。
そんなわけで、岡っ引きは大事にされ、同心からお給金を頂いていたのです。
簡単に(って言うか乱暴)お話してみましたが、明日はもう少し掘り下げてみます?

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今日は岡っ引きについてもう少し。
岡っ引きの岡は岡惚れや岡目八目の岡で、「横から引っ張る」という意味です。
良い言葉じゃありませんので、本人の前で「岡っ引き」なんて言うと、「なんだと、
このやろう」と怒られちゃいます。
岡っ引き本人は自分のことを「御用聞き」と名乗りました。「お上の御用を聞いて働く者」と
言う意味ですね。
十手を預かる身でも役人ではありません。町人です。
岡っ引きは同心の小者で、同心から給金を貰っていると先日お話しましたが、
正式な給料ではなくて、同心のポケットマネーでしたので、額は微々たるものでした。
とてもそれで暮らでるわけがありませんので、岡っ引きの他に仕事がちゃんとありました。
煙草屋だったり、茶屋だったり、中には博打打ちや芝居の興行を打つ者だったり。
元々、犯罪者を懐柔して岡っ引にしていることが多いので、柄の悪い岡っ引も多かったとか。
どうして元犯罪者を小者に使うのかと言うと、裏の世界に明るいので密告させる、
密偵として探りを入れさせるためだと言われています。
使いっ走りや密偵の仕事がほとんどの岡っ引ですが、同心と一緒の時だけは十手と
縄を持つことが許されていました。
捕り物で「お縄を掛ける」と言いますが、岡っ引に縄を縛る権利はありませんでした。
岡っ引の仕事は、同心に言われて取り押さえたり、縄を身体に巻きつけるまでで、
結び目を作って縛るのは、あくまで役人である同心の役目でした。
ところで、時代劇で岡っ引は「親分」と呼ばれていますよね。
あれは、下っ引(したっぴき)や手下(てか)と呼ばれる子分を沢山使っていたからです。
良い岡っ引の条件とは、元スリ、元盗人の子分や博打に詳しい子分を沢山使っていること。
やったことがある者に「おまえならこの屋敷、どう入る?」などと聞いて、手掛かりを得るわけ。
やっぱり餅は餅屋、蛇の道は蛇ですねぇ。

明日は朝から晩までお出かけなので、小話はまたお休みします。

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お江戸をパトロールしていたのは、南、北両奉行所の三廻り同心を合わせても、
たったの28名でしたが、それで困るようなことは、そうそうなかったようです。
お江戸は平和な町で、殺人のような大きな事件は滅多に起こらず、大体が小さい盗みばかり。
それも「桶がなくなっちまったんで、ちょいと隣の家から黙って拝借」みたいな
盗みばかりで、事件にもなりやしません。
町民で組織された自警団のような自身番(じしんばん)もあり、それで結構ことが足りたのです。
お江戸は人口百万とも百二十万とも言われる大都市でした。
その中に2万人ほどの大家さんがいました。大家さんは長屋の管理人と言うだけでなく、
町内の治安にも心を配る存在です。
江戸初期の頃に地主さん自身が、自分の地所のある町を守るために詰めた場所を
「自身番」と呼んだのが始まりらしいのですが、やがて地主さんの代理である家主2名、
店番(たなばん)と言って表通りに面した家に住んでいる者から2名、町内会費で雇った
番人1人の合計5人一組で詰めるようになりました。
自身番には、火の見やぐらや半鐘があり、火事ともなればすぐに町内に知らせますし、
火消しや捕り方の道具なども置いてあり、捕まえた人をひとまず繋いでおく柱などもありました。
人騒がせな酔っ払いなども、ここで一晩預かったりなんぞしたのですよ。
自身番は消防署で、交番で、町内の寄り合い所で、町奉行所の出張所でもあったのです。
ですから定廻りの同心は、自身番を回り「なにも変わりはないか?」と尋ね歩くのが、
実は主な仕事だったりします。
自身番は道が交差する辺りにあるのが普通でした。現在でも交差点に交番が多いのは、
自身番の名残りだと言われています。
皆さんのお宅の近所の交番や派出所、駐在所も、昔々は自身番だったかもしれませんね。

お江戸な小話もこれで10話。ひと段落ってところでしょうか。
今週は本家サイトに集中しますので、小話はしばし休憩します。

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