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世界が終わるまで8

阿世賀先生が乗った飛行機が太平洋上で行方を断ったのは、昨年の秋のことだ。
あれからもうすぐ一年になろうとしている。

「ちょっとアメリカに研修に行って来る」

そう言ったきり戻って来ない人のことを、俺は忘れたことなどない。
この世で一番愛した人を忘れたりはしない。


川田が俺と阿世賀先生の関係にはっきりと気づいたのは、多分あの時だろう。
線香の匂いだけが妙にリアルな葬式で、俺は泣くこともできなかった。
遺体も遺品も見つからなかったというのに、阿世賀先生がこの世にいないという
現実を受け入れることなど、どうしてできただろう。
棺桶の中は藍染の胴着と竹刀が入っているだけだというのに、泣けるわけがない。
白戸先生も矢尾板も、剣道部のOBも誰もが真っ赤に泣き腫らした目をしているのを、
黒づくめの人波の後ろからボンヤリと見ていた。
まるで出来の悪い、陳腐なテレビドラマを見ているようで、全く現実感がなかった。


葬式から帰った晩、部屋に押し入って来た川田は「なぜ泣かない。おまえが
泣いてやらずにどうするんだ。泣けっ」と迫った。

「なぜ泣く? 理由がないだろう」
「阿世賀さんが死んだんだぞっ!」
「やめろっ。死んでない! 帰って来るんだっ!」

「土産はなにが良いか」と笑ったのは二週間前のことだ。「たったの10日間だからな、
浮気するなよ」と身体中に付けられた印は、まだ完全には消えてはいなかった。
ここに付けてくれと強請った肩口のキスマークは、自分の唇が届く範囲を見計らったものだ。
唇を重ねるように、ムキになって何度も吸い上げたそこは、熟した木苺色に腫れている。
赤く熟れた肩を更にきつく吸いながら、自分で自分を慰めたものの勃たなかった。
事故の知らせを聞いた日から、俺は勃たなくなっていた。


一瞬、なんの話だか分からなかった。次に俺を襲ったのは、足元から世界が崩れて行く感覚。
信じることなどできずに、何度も携帯に掛けた。何度も、何度もリダイヤルし続けた。

「お客様がお掛けになった番号は、ただいま電波が届かないところに……」

繰り返されるメッセージに変化はなく、なんで出ないんだ、なにやってるんだと腹が立った。
たとえ殺したとしても死にそうにない奴が、飛行機が落ちたくらいで消えてなくなる
はずがないではないか。
きっとふざけているのだ。皆が、俺が心配しているのを、どこかで笑って見ているに違いない。
そういう子供地味たところのある人だった。


たかが一介の剣道部員が現地に飛ぶわけにも行かず、毎日TVに齧りついて情報を待った。
待って、待って、待ち続けていた俺に、ある日突然、青葉先輩が「明日通夜で、
明後日が告別式だそうだから」と告げた。
決して目線を合わせようとせず、酷く言いにくそうに。
俺はなんと返事をしたのだったろう。覚えていない。
ただ、あの人が帰って来たらビックリするだろうなと思った。
きっと「勝手に俺を殺してくれるな」と笑うだろう。

「死んだなんて言うなっ……殺すぞ」
「高須……阿世賀さんの乗った飛行機は落ちたんだ」
「貴様っ!」
「助かった見込みはないっ」

殴りかかった俺を押さえつけようとする川田と揉み合ううちに、涙が溢れて来た。
泣きたくなどない。泣いたら、あの人がもういないことを認めてしまうことになる。
俺は、俺だけは認めるわけにはいかないと言うのにっ。

「ちくしょう……帰って来るんだ……約束したんだ」
「高須、いいんだ。泣けよ。泣いちまえ」
「ちく……しょう……なんで電話に出ないんだっ。ふざけんなっ。早く帰って来いよ!」

泣き喚きながら暴れる俺にボコボコに殴られながら、川田も泣いていた。
やがて動かなくなった俺を抱き締めながら、声を押し殺して泣き続けた。

「土産はなにが欲しいかって聞いたんだ」
「うん」

もういないのか。どこにもいないのか。
俺の身体を一杯に満たして溢れ返させるあの人は、もう帰って来ないのか。

「……先生って呼ぶと怒るから……アンタとしか呼べなかった」
「……」
「本当は名前で呼んでやりたかったのに……もう呼べない」
「俺が呼んでやる。ハルって呼んで傍にいる」

話が全く通じていない。なんてトンチンカンな奴だ。
そう思ったら、こんな時だと言うのに、ふっと笑みが漏れた。

「バカだな。おまえは、あの人じゃないだろう」
「俺じゃ、代役にもならないか?」
「おまえでイけたら考えてやっても良い。どうせ無理だろうけどな」

泣き笑いした川田のその顔は、なぜだろう、あの人に少しだけ似ているような気がした。
その晩、川田に抱かれた。
川田に抱かれながら、二度と戻らぬあの人を思い、なぜこの温もりではないのだろうと泣いた。
三日三晩、川田は俺を抱き続け、流した涙も枯れ、夢を見ることもなく眠りにつくように
なった頃、二十日ぶりに吐精した俺は、身体が心を裏切ることと、この世に縛り付け
られている自分を知った。
泣いて喚いて疲れ果てた末に、結局、俺は川田を身代わりにしたのだと言うのに、
肉の快感を呼び起こし、俺をこの世に縛り付けたのはおまえだと、全てを川田のせいにした。


最低だ。


川田が俺を縛り付けたわけじゃない。
俺が川田を縛り付けたのだ。

続く

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