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煙のほとんどは窓の外へ排出されてしまったのだろう。
実験棟の中は思っていたよりも見通しが良かった。
とは言え、薄っすらと霧が掛かったように残っている煙は、視界を遮るのに十分な
幕を張っている。
鬱陶しげにボンヤリと霞む、きな臭い廊下を進みながら川田と鴫原先生の姿を探し始めた。


普段化学部が使用する実験室は、他の先生方の迷惑にならないようにとの学校側の
配慮から、一階奥の突き当たりにあり、建物から一部突出した形になっている。
「突き当たり」と言えば聞こえは良いが、実験棟の一階部分は何度も破壊された
お陰で建て増しを繰り返し、複雑に入り組んだ迷路となっていた。
ようするに化学部とは、鴫原先生が顧問に就任する以前から危険な集団だった
と言うことだ。
普段ならば迷いもせずに通り抜けることができるはずの廊下が、煙のせいで
見慣れないものに感じる。

「川田っ! どこにいる!」

ハンカチで押さえた口元からはくぐもった声しか出て来ない。
短く舌打ちした俺は、ハンカチをポケットに突っ込むと煙ごと息を吸った。

「川田っ!」

たちまち肺に煙が流れ込み、むせ返った。
想像以上の息苦しさにゲホゲホと咳き込み、涙で滲む目を瞬かせなければ何も見えない。
慌てて拳で口元を覆ったが、一度むせた咳はなかなか止まらなかった。
有機溶剤でも流れているのか、ツンと刺す刺激臭に喉の奥がヒリつく。
早く見つけ出して、ここを離れた方が良い。
引火などしなければ良いがという思いに、嫌な汗が背中を流れた。


この俺に臭い煙を吸わせた罪は重いぞ、川田っ!
汚い現場を這いずり回るのを好まないこの俺が、こんなヤバイところで人探しなんぞをして
やっているのだ。見つけたらタダではおかない。
鴫原先生でも川田でも良い。即座に蹴倒してやる。


壁に手を預け、手探りで進むうちに、ようやく突き当たりの教室を見つけた。
だが、見上げて確認した表示板には「第5実験室」とある。
どうやら幾つも枝分かれした廊下の曲がり角を間違えてしまったらしい。
化学部の第1実験室は、中庭を挟んで第5実験室の反対側にある。


この対面と言うと、窓から出た方が早いか……
だが下手に建屋の外に出れば、川田や先生と行き違いになってしまうかもしれない。


躊躇する俺の耳に、またしても小さな爆発音が響いた。
中庭側の窓を開け放ち、煙を追い出しながら、第一実験室の様子を伺うが、
割れた窓から煙が噴出すばかりで他になにも見えなかった。

「川田っ。そこにいるのか!」

近くにいると分かっていながら、呼んでも応えない相棒に苛立たしさが募る。
バカが。俺が呼んだら、即座に犬のように走って来ないかっ!
躾が足りないな。あとでジックリとお仕置きをしてやる。
そうだ。無事でさえいれば、生きてさえいれば、なんでもできる。
お仕置きも、互いを貪りつくすセックスも、歯が浮くような甘い囁きも、
生きていればこそだ。
たとえ遠く離れようとも、生きていれば間違いなく逢える。
俺達は天使の分け前に匹敵する時間を共有するのだ。
そのために今を生きる。


煙に咳き込みながら、唐突に笑いが込み上げて来た。
川田は「死なない」と言った。それもわざわざ「絶対」を付けてだ。
なにがあってもなくとも、どうせ俺はあいつの身を心配せずにはいられない。
SATに行こうが行くまいが、目の届かないところにいる川田の身を案じ続けるだろう。
ならば、その約束を守らせるまでだ。
生きてさえいれば、あいつは必ず俺に逢いに来る。
そしてどんなに遠くにいようが、俺はあいつの36度の心地良さを求め続けるのだ。
これはもう理屈ではなく、説明、言い訳できるような感覚ではない。
だが、あれこれ悩む必要などないほど、まったく単純明快なことだった。


バカバカしいほど愛しているのだ。
あの猪突猛進で無謀な男が、どうしようもなく愛しい。
とっ捕まえて蹴り倒し、「死んだら許さない」と再度脅しを掛けてやらねば
気が済まないほど、愛して止まない。どうしても必要なのだ。
俺の退屈な人生に彩りを与え続ける、あのバカが。


ただ一つの真実は川田を信じることではなかった。
俺が、俺自身を信じ続けることが、真実なのだ。
川田を手放してやるなど、傲慢も甚だしい。
言葉は消えてなくなるからいらないだと? 当然だ。
自分のロイヤルティを疑う俺が、川田の言うことを素直に信じられるはずがない。


俺が死ぬまで、もしくは川田が死ぬまで、愛し続けることができるのか?
今なら誓える。迷いは晴れた。
答えはYesだ。


ずっと阿世賀先生の死が引っ掛かっていた。
熟して落ちる果実ならば受け取ることもできるのに、突然の激しい嵐にもぎ取られ、
行方も知れない果実は探しようがない。
あの人がどこかで迷っているような気がして、どこかで俺を待っているような
気がしてならなかった。
文字通り死ぬまで愛し続けたのだ。いや、今も変わらず愛しているし、生涯
この思いが変わることはないだろう。
川田を愛したからと言って阿世賀先生への思いが薄らぐわけではないのだ。
一体俺はなにに怯えていたのだろう。
あれやこれやと難しく考えすぎて、本当は真っ先に見なければならないものを、
わざと目を瞑り見えない振りをしていた結果がこれか。
バカは川田ではなく、俺の方だな。


廊下を漂う煙が中庭に向かって勢い良く流れ出し、一気に視界が開けた。

続く

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