category:小説
世界が終わるまで7
廊下には溜まった熱気が泥となり、足に絡みついて離れない。
重たい身体を引きずるように、熱気の運河をのろのろと進む。
俺の後ろを数歩離れて、むっつりと黙り込んだ川田がついて来ていた。
黙って縦に並んで歩くことに奇妙な違和感を持った俺は、ああ、そうか、いつもは川田が俺の前を歩いているのかと思い当たった。
並んで歩いていた川田が、一歩先を行くようになったのはいつからだろう。
俺がそこにいることを確認するかのように時々振り返り、瞳の底でうなづく
素振りをするようになったのは……
川田が俺の背中を見ている。
様々な疑念が入り乱れているらしい視線を背中に感じながら、結構、視線とは
痛いものなのだと気づく。
俺もそんな目で川田を見ていたのだろうか。
気づかうような、尋ねるような、射殺すかのような視線で。
教室のドアに手を掛けた俺を、便所を出てから一言も発しなかった川田が止めた。
「授業に出る気なのか」
「当然だろう」
「まだ顔色が悪いぞ。寮に戻った方が……」
「どけ。邪魔をするな。俺は弁護士になると決めたんだ」
おまえとは違う。
剣道を辞めたあの日に弁護士となる誓いを立て、この一年猛勉強して来たのだ。
たったの一年でドン底の成績だったγ2からα1クラスへと脅威的な進化を
遂げた俺を見ろ!
万年ガンツーのおまえと一緒にするな。
俺は堅すぎるほど堅気な仕事に就くと決めたんだ。
将来、おまえがテロに巻き込まれようが、イラクに行こうが、どこで死のうが、
俺の知ったことじゃない。
夢など見る間もないほど働き、平凡で退屈だなどと省みる暇など絶対に作らず、
寝不足でフラフラになりながら激務をこなす、テレビにも引っ張りだこの
超売れっ子弁護士先生になってやる!
「分かった。けど、あんまり具合が悪そうな時には引きずってでも帰るからな」
「……勝手にしろ」
意地でも寮に戻る気などなかったが、100分授業を二講義受けたところで、
吐く物がなくなった胃が痙攣を起こした。
キリキリと捻れる上腹部の痛みに、思わず椅子から転げ落ちる。
まずいなと思った時には、川田がすっ飛んで来ていた。
「高須っ!」
「触るな……なんでもない」
「馬鹿野郎っ! どこがだよ!」
床の上で身体を丸めて痛みをやり過ごそうとする俺に、川田の怒声が降りかかり、
無理矢理抱き起こそうとする腕が絡みつく。
だから、引っくり返る直前の胃の上を押さえるなと言おうとして、夕べも
こんなことがあったなと思い出した。つくづく学習能力のない奴だ。
「なに笑ってんだよ。真っ青だぞ。腹か? 胃が痛いのかっ」
そうか、俺は笑っているのか。
胃が捻じ切れるかと思うほどの痛みを感じながら笑っているのか。
やはり馬鹿が一人傍にいると退屈しないらしい。
俺の頭を自分の胸に押し付けて抱き締めて来る、丸めた身体をすっぽりと覆う
36度と少しの熱さ。
汗で濡れて張り付いたシャツ越しに伝わる体温は、キリキリと痛む身体に優しく、
柔らかだった。
心地良い。
背中を丸めたこの格好は、まるで羊水に浮かぶ胎児だ。
親指ほどもない小さな芽は、36度と少しの熱に守られて、平和で幸せな夢を
見ているのだろう。
決して毒などではなかった。
数多の宗教と価値観、世界観の相違。
政治的な思惑に揺れる世界情勢。
大人の勝手な都合で引き起こされる戦争。
テロリスト達により繰り返される報復劇。
60年経ても尚、肉体を蝕む傷跡。
そして、理不尽なまでに突然すぎる飛行機事故。
今日が平和だからと言って、明日が約束されているわけじゃない。
巻き込まれて死ぬのは、いつでも無力な者達だ。
「川田」
「喋るな。今、立花が保健医を呼びに行った」
低く唸る声に喉の奥が引き攣った。
「笑ってる場合か!」
「どうして震えているんだ。胃が痛むのはおまえじゃなく俺の方だぞ」
「うるせぇ。放っとけよ」
「おまえらしくもない。それでも野獣・川田か」
「喋るなっつってるだろうがっ」
背骨でもへし折る気なのか、抱き締める腕に力が籠もる。
だが、益々熱を帯びる川田の身体が、不思議と痛みを和らげているようで心地良かった。
36度と少しの温かさに包まれて、俺はもっともっと小さく丸くなって行く。
消えて行く痛みに代わり、今度は眠気が襲って来た。
夕べはろくに眠れなかったのだ。
このまま平和で幸せな夢を見るのも悪くない。
「ハル? おい! どうしたっ。なにか喋れっ」
その名前で呼ぶのは止めろ。
喋るなと言ったり、喋れと言ったり、本当にこいつは馬鹿だな。
こんな脆弱な俺は捨てて行け。
おまえは俺のような狭量な人間に縛られて良い奴じゃない。
解放してやる。意地や恐怖からではなく、心からおまえを解放してやるよ。
続く
廊下には溜まった熱気が泥となり、足に絡みついて離れない。
重たい身体を引きずるように、熱気の運河をのろのろと進む。
俺の後ろを数歩離れて、むっつりと黙り込んだ川田がついて来ていた。
黙って縦に並んで歩くことに奇妙な違和感を持った俺は、ああ、そうか、いつもは川田が俺の前を歩いているのかと思い当たった。
並んで歩いていた川田が、一歩先を行くようになったのはいつからだろう。
俺がそこにいることを確認するかのように時々振り返り、瞳の底でうなづく
素振りをするようになったのは……
川田が俺の背中を見ている。
様々な疑念が入り乱れているらしい視線を背中に感じながら、結構、視線とは
痛いものなのだと気づく。
俺もそんな目で川田を見ていたのだろうか。
気づかうような、尋ねるような、射殺すかのような視線で。
教室のドアに手を掛けた俺を、便所を出てから一言も発しなかった川田が止めた。
「授業に出る気なのか」
「当然だろう」
「まだ顔色が悪いぞ。寮に戻った方が……」
「どけ。邪魔をするな。俺は弁護士になると決めたんだ」
おまえとは違う。
剣道を辞めたあの日に弁護士となる誓いを立て、この一年猛勉強して来たのだ。
たったの一年でドン底の成績だったγ2からα1クラスへと脅威的な進化を
遂げた俺を見ろ!
万年ガンツーのおまえと一緒にするな。
俺は堅すぎるほど堅気な仕事に就くと決めたんだ。
将来、おまえがテロに巻き込まれようが、イラクに行こうが、どこで死のうが、
俺の知ったことじゃない。
夢など見る間もないほど働き、平凡で退屈だなどと省みる暇など絶対に作らず、
寝不足でフラフラになりながら激務をこなす、テレビにも引っ張りだこの
超売れっ子弁護士先生になってやる!
「分かった。けど、あんまり具合が悪そうな時には引きずってでも帰るからな」
「……勝手にしろ」
意地でも寮に戻る気などなかったが、100分授業を二講義受けたところで、
吐く物がなくなった胃が痙攣を起こした。
キリキリと捻れる上腹部の痛みに、思わず椅子から転げ落ちる。
まずいなと思った時には、川田がすっ飛んで来ていた。
「高須っ!」
「触るな……なんでもない」
「馬鹿野郎っ! どこがだよ!」
床の上で身体を丸めて痛みをやり過ごそうとする俺に、川田の怒声が降りかかり、
無理矢理抱き起こそうとする腕が絡みつく。
だから、引っくり返る直前の胃の上を押さえるなと言おうとして、夕べも
こんなことがあったなと思い出した。つくづく学習能力のない奴だ。
「なに笑ってんだよ。真っ青だぞ。腹か? 胃が痛いのかっ」
そうか、俺は笑っているのか。
胃が捻じ切れるかと思うほどの痛みを感じながら笑っているのか。
やはり馬鹿が一人傍にいると退屈しないらしい。
俺の頭を自分の胸に押し付けて抱き締めて来る、丸めた身体をすっぽりと覆う
36度と少しの熱さ。
汗で濡れて張り付いたシャツ越しに伝わる体温は、キリキリと痛む身体に優しく、
柔らかだった。
心地良い。
背中を丸めたこの格好は、まるで羊水に浮かぶ胎児だ。
親指ほどもない小さな芽は、36度と少しの熱に守られて、平和で幸せな夢を
見ているのだろう。
決して毒などではなかった。
数多の宗教と価値観、世界観の相違。
政治的な思惑に揺れる世界情勢。
大人の勝手な都合で引き起こされる戦争。
テロリスト達により繰り返される報復劇。
60年経ても尚、肉体を蝕む傷跡。
そして、理不尽なまでに突然すぎる飛行機事故。
今日が平和だからと言って、明日が約束されているわけじゃない。
巻き込まれて死ぬのは、いつでも無力な者達だ。
「川田」
「喋るな。今、立花が保健医を呼びに行った」
低く唸る声に喉の奥が引き攣った。
「笑ってる場合か!」
「どうして震えているんだ。胃が痛むのはおまえじゃなく俺の方だぞ」
「うるせぇ。放っとけよ」
「おまえらしくもない。それでも野獣・川田か」
「喋るなっつってるだろうがっ」
背骨でもへし折る気なのか、抱き締める腕に力が籠もる。
だが、益々熱を帯びる川田の身体が、不思議と痛みを和らげているようで心地良かった。
36度と少しの温かさに包まれて、俺はもっともっと小さく丸くなって行く。
消えて行く痛みに代わり、今度は眠気が襲って来た。
夕べはろくに眠れなかったのだ。
このまま平和で幸せな夢を見るのも悪くない。
「ハル? おい! どうしたっ。なにか喋れっ」
その名前で呼ぶのは止めろ。
喋るなと言ったり、喋れと言ったり、本当にこいつは馬鹿だな。
こんな脆弱な俺は捨てて行け。
おまえは俺のような狭量な人間に縛られて良い奴じゃない。
解放してやる。意地や恐怖からではなく、心からおまえを解放してやるよ。
続く
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